あけましておめでとうございます。

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あけましておめでとうございます。
申年。サルというとわたしのなかではもう完全に
「ドラゴン・キングダム」でジェット・リーが演じたモンキー・キングです。
モンキー・キングしか思い浮かびません。
わが心のモンキー・キング。
モンキーキング2


旧年はとくにこれという大事件もなかったんですけれど
おぼえているのは 
仕事がめったやたらに忙しかった。
不養生すぎて病気になった。
たった1泊だけど大阪旅行をした。たのしかった。
なぜか仏教に興味をもった。
ということです。

仕事がめったやたらに忙しかった。
→自分だけでなくもっと何年も前から同じ職場にいる先輩も 今年ほど忙しかったことは
いままでなかったといっていたので、やっぱり忙しかったんじゃないかと思います。
いやー べつに仕事をすることがイヤだとかそういう気持ちはないんですけど、
休養がとれない、ただそれだけのことで
べつに多重債務がつらいとか失恋したとかいう悩みがなくても
人間てのは死にたくなるんだなとわかりました(T_T)
肩も頭も背中も腰も目もつらくてつらくてしょうがない毎日でした。
今年はブルーライトカットグラスを絶対に作ろう。
これまではいまひとつあのメガネを信用してなかったけど・・・。
らくになれるものなら ある程度なんでもためしてみないといけません。

不養生すぎて病気になった。
→腎臓をやられました。あまり深く考えていなくて、カゼをひいたりインフルエンザになったりしたとき
いつもそうであるように、薬を飲んでいればいいんだとおもっていたんですけど、
あとでまわりからきくと、腎臓ってのはいったんこわすと、かなりまずいらしいですね。
なんでも、腎臓の細胞は一度こわれるともとにもどらず、減ったら減ったままだとか。
悪くなると、透析などのつらい治療をずっとうけつづけなくてはならないとか。知らなかったです。
運よく軽くすんだものの、それでも旧年の3月からいまにいたるまで薬を毎日飲んでます(T_T)

たった1泊だけど大阪旅行をした。たのしかった。
→9月末に会社の仲間と2人で大阪に行きました。
半年も前からスケジュールを死ぬ思いで調整して、
というかこの旅行を心の支えにして半年間がんばってきたもんで、
無事に休みを確保できたときはとてもうれしかったです。
ユニバーサルスタジオジャパンに生まれてはじめていきました。
バック・トゥ・ザ・フューチャーのアトラクションで酔ってゲロをはきましたが、
それ以外は元気に遊べました。
2日目は「進撃の巨人展」をみにいきました。
大阪の人は東京の人ほど進撃の巨人熱がつよくないみたいですね。
いや、作品それじたいのブームがすこしおちついてきたのかな?
360度体感シアター「哮」はすごかったです(^O^)

なぜか仏教に興味をもった。
→簡単にいうと、自分の心を強くしたいとおもっているのかな。
自分の心を強くして、雑音にまどわされない人になりたいと。
あと、いつこうおもったかは覚えていないんですが、
宗教の力というのは、これからの時代、
人の心にとって必要なものになるかもしれないと。
2000年以上もまえからずっとずっと伝えられてきた、宗教ってのはなんなんだろうなと。
なんのためにここまで、残ったのかなあと思ったんですよね。
形を変えたり、分派ができたり、異端ができたりしながら、
もう開祖はとっくに死んだのに、それでもこうして残ったのはなんでなのか。
いつかわれわれ人間が、天災ならまだしょうがないにしても、
血を流して殺し合って核兵器とかでひとりのこらずこっぱみじんになるような 
そういうしょうもない形で滅びることだけはふせぐために、
いよいよそうなりそうなときに、最後の人心の立て直しの手段として、
むかしの人たちが残してくれたのかもしれんなあと。

おととし、転職活動をしていたころ、毎日面接がうまくいかなくてつらくて、
あとどうしても無職だと暇をもてあますもんで、
時間があると図書館にいって本を読んでいたんですね。
心の支えがほしくて。宗教関係の本を。
もともとは、キリスト教(の宗教画)が好きだから、画集をながめたり、
キリスト教の聖職者のかたが書いた本を読んでいたんですけど、
なんでだったか、だんだんと道元とか最澄とか栄西とか法然とか親鸞とか、
それらの人々の伝記やら評論やらを読み始めて、
(このへんの気持ちのうつりかわりの詳細はほんとうによくおぼえてません)
それで仏教に、なんだか親しむようになっていきました。

仏教は、神さまを信じる宗教じゃなく、自分自身の心を鍛える 一種の哲学であるようです。
わたしは神さまの存在を頭からは信じられず、神さまが助けてくれるといった考えかたを
心の底からは受け入れられないから、
そういう考えかたによって自分が救われることはないとおもいますが、
自分の心を自分で鍛えるなら まだなんとか「可能」なような気がしたんでしょうかね。

神さまの存在を信じていないものですから、
そんな自分が仮に 宗教の教えの力をかりて生きようとおもったとき、
神の存在を信じることが大前提の宗教を選ぶと、悩むことになるでしょう。
「いつまでたっても神さまの存在を信じることができない」ということで。
神さまの存在を信じられない、ほんとにいるんだったらなぜ助けてくれないのか
なぜ姿をみせて直接話しかけて わたしの心をらくにしてくれんのかと 思い続けるでしょうね。
そんなことでずっと悩むんじゃあ なんのためにその宗教の力をかりるのかわからないですわ。
自分じゃどうにもできないことですからね 
神さまがいるかどうかわからないからって、自分で作るわけにもいかないし。
でも、「いつまでたっても自分の心を強くできない!自分は弱い!」と悩み続けることならば
すべては自分の責任でなんとかできることなので、
がんばりつづけることができるような気がします。
その点、仏教は、
「そうか、どうしても自分の心を強くできないのか。しょうがないなあ。じゃあこうしなさい」
とかいっていい方法をおしえてくれたりするものじゃなくて、また、
「苦しいときはわたしのもとにきなさい。休ませてあげよう」
とかいって、やさしい神さまがおひざをかしてくれるわけでもありません。
「なにも考えなくても神さまが全部用意してくれている。神さまにゆだねていればよい」
といったものでもない。
基本的にあくまで自分でがんばれ、自分で考えて切り開け、というもののようなんです。
なんかそのつきはなしたかんじがいいわなあとおもったというか。
位の高いお坊さんも、チベット仏教の最高指導者のダライ・ラマ14世でさえも、
まだ自分はブッダ(覚醒者)になれなくて毎日修行してるっていってます。
こういういいかたは、読む人が読んだらあたまにくるでしょうけど、つまり、
いるかいないかわからない神さまにたいして身をなげだすようなことはできない。
それよりも自分で自分を鍛えて強くなるという考えかたのほうが
確実で実際的なような気がした。
ということでしょうかね。
転職に成功して、もういまは
「心の支えがほしくて本をよみあさる」という毎日ではなくなったんですけど、
なにをおもったのか(結局ここもよくおぼえていない(^_^;) )、
いまだに仏教の本いっぱい読んでます。
でも、仏教の考えかたの実践や 自分なりに 自分の心を強くする方法を考えていくうえで
手引きになってくれるような本というと、どんなのがいいのかがまだわかりません。
いまのところ図書館の「宗教」の棚にある仏教関係の本をはじから読むということしか
していません。それもできるだけむずかしくなさそうなやつをね。
このまえ、山梨の曹洞宗のお寺にいき、お坊さんと話しているときに、
いま仏教に興味あって本を読んでいますと言ったら、とても喜んでくれました。
でも、本といっても、的確に書いていなかったり、曲解がすぎるものも
あるので、ものによってはいくら読んでも意味がないんだよねと言われました。
あんまりゆっくり話す時間がなかったんですけど、
今度会ったときはそれまでに自分が読んだ本をメモしておいて
こんなのを読んできましたとお坊さんにみせて、どうだかチェックしてもらおうとおもいます。
そしてお坊さんがよいとおもう本をおしえてもらいます。

なんかこうしていろいろと書いてみて
自分の心がいかに荒廃し 未熟であるかがわかってきましたわ。


今年はまずぜったいに旧年のようなひどい体調不良におちいらぬように
用心しながら仕事に励みたいと考えています。
忙しいことに、できれば慣れたい。
合間をぬって うまくたくさんの本を読んだり映画を観たりしたいとおもいます。




Category: 雑記

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