考えたこと

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今回の震災のことにはまいった。
自分にできることなんてのはぜんぜんなにひとつありはしないと
つくづく思い知らされる。なにひとつない。
なにもできないってのはひどい話だ。
ものごとが大きすぎて圧倒される以外になにもない
関係ないとはとてもおもえない
なぜこんなにくりかえして つらい目にあうのか?
つい数年前に東日本震災があったばっかりで
またこんなに大きい地震があって人がいっぱい死んでいる
なんでこういうことになってしまうのか。
泣いている人がかぞえきれないほどいる。
なにがわるかったからこうなったのか?
直視するのはむりだ
毎日自分の義務を消化することでせいいっぱいで
ほかのことはなにもできない。
被災地に行くこともできなければ 被災地の人のために
これなら効果があるだろうとおもえるようなことも おもいうかばないし
できないし 
その意味でもなにもできないのだが
それ以前に自分のことがなにもできない
まったくなにも能動的におこなえない
手も足も出ない
気ばかりあせるというか 考えがまとまらないのに
やらなきゃいけないことだけがあるようなかんじというか
うまくいえないのだが 何をやっても やっているような実感がない
立ち向かおうという気が いつもは わいたりするのだが。
被災地の在住でもなんでもないのに
頭にいろんなことが浮かんできてしまって、
なさけない話だがそれらの考えや映像が 
どれもとてもこわい ろくでもないものばかりなもんだから
直視できないで 頭からふりはらうためだけに生きているような
状態。
気を抜くとところかまわず涙がでてくるんだが。
みんなこうなんだろうか?どうすりゃ脱却できる?

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Category: 考えたこと

中里学さんのライブをききにいった

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日曜日に中里学というシンガーのライブをききにいった。横浜に。
中里学氏のオフィシャルウェブサイトは→こちら
わたしは長谷川直樹というシンガーがすきであり、友人でもあるのだが
中里学氏はこの長谷川直樹という人と定期的にいっしょに演奏活動をしているので、
それでわたしもしっていた。
けど、彼の歌をまともにきいたことはほとんどなく、これで2回めか3回めくらいのものだった。
というのも、その長谷川直樹さんとの定期的な演奏活動というのが
たいてい平日なもので、自分は仕事で行かれないことがおおいからだ。

でも、今回はワンマンライブときいて なんだかとてもきいてみたくなったから行った。
過去に2回くらい彼の歌を きいたことがあったわけだが、
よかったんだよなという記憶があったから きいてみたいとおもった。
雨がふったけど花粉症の自分にはむしろ好都合くらいの天気で 元気に横浜まででかけた。
それにしても西口五番街っていうのはラビリンスだな。
モロッコのフェズ旧市街みたいなかんじじゃないかな。
何回もおなじ場所に出るし、まいごになってまいった。

そんなことはどうでもいいんだけれど、
わたしはこの中里学氏のライブをきいてすごく感動した。たのしかったし。
それでなぜいいとおもったのかということを 言葉にできないかまる1日考えて、
結果、いま、なんとか言葉にできそうであるから、書いてみようと思う。

わたしはおもに中里学氏の声と歌詞にいろいろなことを感じた。
ライブがとてもたのしかったので帰りにまよわず彼のあたらしいCD
「君は僕の生きる理由だから」を買い
きょうは会社にもっていって聴きながら仕事をしていたのだが、
それで気づかされたことがあった

この人の歌の歌詞につかわれている言葉は、
素朴でありふれている。
歌の歌詞というのは全体でひとつの意味をもたすものであろうから
一部をひろうというやりかたはおかしいのかもしれないが、
それでもちょっとひろってみると、

・My Way
「目指す場所にたどりつけるまで」
「傷つくことを恐れないで」

・今もあなたに
「会いたいよ」
「あの頃に戻れない」

・日曜日の君
「出会った頃と変わらずに 君の事を想っている」
「昼下がりの日差し」
「互いに傷つけあってしまうときも」

・魚
「枯れる事なく溢れ出る想い」

・夢の続きへ
「見た事のない世界へ 歩き出す夢の続きへ」

・ありがとう
「今日はどんな出逢いが僕らを待っているだろう」
「輝く未来へ」

アルバムにおさめられているどの曲のどこをひろっても、
このようなかんじで、とても素朴だ。
すぐに頭にはいるが 歌われなければすぐに忘れてしまう
和語がおおく 英語はすくない。
簡素で、とってもふつうだ。
いまどき無数にリリースされているJ-POPの
どれかの曲にきっと入っていそうな詞ばかり。
というか きっと入っていそうだからこそもうだれも遣わないかもしれないくらい
ありふれた言葉ばかりであると思う。

それらの言葉が、心にくる。聞き流すことができない。
言葉に、新しい意味を与えるかのように歌う人だった。
ウーン ちょっとちがうな
聞き流してしまうようなフツーの言葉のほんとうの意味をあらためて
教えようとするかのように歌う人だった。

その感触を、自分がどのようにうけとったかを、的確にとらえるために
まる1日を要したのだが、いまはわかっている
ガラスの風鈴。
熱いガラスに息をふきこんで風鈴の形をつくるあの仕事だ。
あれだった。
わたしは、風鈴の細工師の人は、たとえ風鈴が完成してもう熱くなくなっても、
ものすごい高温のガラスだった数時間前の熱気をしっているはずだとおもう
模様をつけて仕上げて店頭にならべても、
熱いガラスであったことを細工師の人だけは知っているのであり、
それは完成したのを買っていくだけの消費者と 
作った人との感触の決定的な違いではないかなあ。
そして、細工師の人は、ガラスを熱いところから鍛えたからこそ、
風鈴というのがいかに涼しさを感じさせてくれるものであるかをしりうる。
きっと買う人たちに 風鈴てほんとうに涼しいもんだよ、
なぜならこんなに熱いところから息を入れて、鍛えたのだから 
ということを伝えたいんじゃないかなと。
もしわたしが風鈴の細工師だったらそんなことを思って、なんだかはがゆいようなかんじで
店頭にならべた風鈴たちが 売れていくのをみているだろうという気がする

まるでもともとある言葉に意味をひとつひとつ吹き込んでいくような、
こういう意味だよ、こういう風景のことをいいたいんだよと あらためて教えようとするような
きもちのよい力がこもった歌いかただったんだよな 中里学氏の歌

それは彼の歌の息のスピードであり、 声の質であり、声の太さのことであったのだろうが
あの歌いかたであの声の質であのように歌われると
胸に深く迫るんだよね 言葉が。
中里学氏が知っているそのままの 言葉の意味の深みや迫力で
わたしにその言葉が伝わったのかは、わたしは中里学氏じゃないんでわからないけれど、
なんだか「こうなんだよ、こういうことがいいたいんだよ」と
言葉を手渡されたような実感があったね。
もっと変わった刺激的な詞を選ぼうと思えば選べるのだろうし、
なのになぜそうしないのかまでは わたしはわからないが、
簡明すぎるほど簡明な言葉を 歌う力だけでこんなにまで新鮮なものにして
聴く人に与えてしまうことはほんとうにすごいものだとかんじた

それって中里学氏のなにがすぐれているからできることなのかは、わからない。
わたしは声のことだとおもいこんでいるけど。

時がたつこともわすれ、この人から言葉をずっしりと手渡されるかんじを
心からたのしんだ。
ただ
さいごの曲のときに、中里学氏が
「まえに2人で活動していたのが1人になったとき、さいしょはお客さんがひとりもいなかった
でも いまはこんなにたくさんの人が自分の歌に耳をかたむけてくれている
きょう、自分は自分が生きる意味みたいな、生きてきた証みたいなものを
残せたような気さえする」
というようなことを話していた。
それをきいてちょっと、「ああ、だからなのか。」とわかったような気になったところがあった。
わたしは 自分自身、ああ100年後には自分のことを知っている人が
確実にひとりもいなくなるのに 自分はそれでなんで生きているのか、
だれかがずっと覚えててくれるような、自分が生きていたという証拠を残したい、
残せなければ生きている意味がない と おもって
すごく苦しい気持ちになることが多い。
そんなことをおもう人がほかにもいるのか知らないけれど
その焦燥はとても苦しいものだ。
かなわないことがほぼ確実としっているからこそでもあるが。
生きてきた証みたいなものを残せたような気がする、
と彼が言ったのをきいたとき、
だからこんなに彼の歌の言葉は心にくるのかとわかったようにおもった。
伝えたい、残したい、証したいと 願うからこんなに言葉が質量をもっているのかと。
歌はその場にしか生まれないもので、消えてしまうものだから、
受け取る人になれたことにずいぶん強い感激があった。

それに 残したい伝えたいとおもっても、実際的には力がなくてできない人もたくさんいるのだ。
本人に力があっても 受け取ってくれる人がいなければ成り立たない。
深遠だ。 人が生きた証しっていうのはその人ひとりでは成立させられないということだ。

なんだかこむずかしいようなことをやたら書いたが
べつに感傷的なことをいいたかったわけではなくそういうライブでもなかった。
中里学氏は話すこともなんだかかわいらしくておもしろいし
お客とのコミュニケーションもとってもうまかった
この人ものすごい高次元にリラックスしてんなー!というかんじがした(^_^)
集中してんだけどいいバランスでヌケてるというか。
弦が切れたときのご乱心ぶりがおもしろかった(^_^)
うまくいえないが みているほうも肩の力が抜けるライブだった。

こういう楽しく充実したライブっていうのはどんなミュージシャンもいつもできることなのか?
わたしはそうはおもえない
だれでもいつでもできるもんじゃないとおもう。

ちいさくても確実に、奇跡の2時間だったんだろうな。

なんだかあんまり頻繁にワンマンライブはやっていないようなんだけれど
やってほしいなあ。毎年とかやってほしい。
またききにいきたい。


















Category: 音楽 | Tag: 中里学

あけましておめでとうございます。

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あけましておめでとうございます。
申年。サルというとわたしのなかではもう完全に
「ドラゴン・キングダム」でジェット・リーが演じたモンキー・キングです。
モンキー・キングしか思い浮かびません。
わが心のモンキー・キング。
モンキーキング2


旧年はとくにこれという大事件もなかったんですけれど
おぼえているのは 
仕事がめったやたらに忙しかった。
不養生すぎて病気になった。
たった1泊だけど大阪旅行をした。たのしかった。
なぜか仏教に興味をもった。
ということです。

仕事がめったやたらに忙しかった。
→自分だけでなくもっと何年も前から同じ職場にいる先輩も 今年ほど忙しかったことは
いままでなかったといっていたので、やっぱり忙しかったんじゃないかと思います。
いやー べつに仕事をすることがイヤだとかそういう気持ちはないんですけど、
休養がとれない、ただそれだけのことで
べつに多重債務がつらいとか失恋したとかいう悩みがなくても
人間てのは死にたくなるんだなとわかりました(T_T)
肩も頭も背中も腰も目もつらくてつらくてしょうがない毎日でした。
今年はブルーライトカットグラスを絶対に作ろう。
これまではいまひとつあのメガネを信用してなかったけど・・・。
らくになれるものなら ある程度なんでもためしてみないといけません。

不養生すぎて病気になった。
→腎臓をやられました。あまり深く考えていなくて、カゼをひいたりインフルエンザになったりしたとき
いつもそうであるように、薬を飲んでいればいいんだとおもっていたんですけど、
あとでまわりからきくと、腎臓ってのはいったんこわすと、かなりまずいらしいですね。
なんでも、腎臓の細胞は一度こわれるともとにもどらず、減ったら減ったままだとか。
悪くなると、透析などのつらい治療をずっとうけつづけなくてはならないとか。知らなかったです。
運よく軽くすんだものの、それでも旧年の3月からいまにいたるまで薬を毎日飲んでます(T_T)

たった1泊だけど大阪旅行をした。たのしかった。
→9月末に会社の仲間と2人で大阪に行きました。
半年も前からスケジュールを死ぬ思いで調整して、
というかこの旅行を心の支えにして半年間がんばってきたもんで、
無事に休みを確保できたときはとてもうれしかったです。
ユニバーサルスタジオジャパンに生まれてはじめていきました。
バック・トゥ・ザ・フューチャーのアトラクションで酔ってゲロをはきましたが、
それ以外は元気に遊べました。
2日目は「進撃の巨人展」をみにいきました。
大阪の人は東京の人ほど進撃の巨人熱がつよくないみたいですね。
いや、作品それじたいのブームがすこしおちついてきたのかな?
360度体感シアター「哮」はすごかったです(^O^)

なぜか仏教に興味をもった。
→簡単にいうと、自分の心を強くしたいとおもっているのかな。
自分の心を強くして、雑音にまどわされない人になりたいと。
あと、いつこうおもったかは覚えていないんですが、
宗教の力というのは、これからの時代、
人の心にとって必要なものになるかもしれないと。
2000年以上もまえからずっとずっと伝えられてきた、宗教ってのはなんなんだろうなと。
なんのためにここまで、残ったのかなあと思ったんですよね。
形を変えたり、分派ができたり、異端ができたりしながら、
もう開祖はとっくに死んだのに、それでもこうして残ったのはなんでなのか。
いつかわれわれ人間が、天災ならまだしょうがないにしても、
血を流して殺し合って核兵器とかでひとりのこらずこっぱみじんになるような 
そういうしょうもない形で滅びることだけはふせぐために、
いよいよそうなりそうなときに、最後の人心の立て直しの手段として、
むかしの人たちが残してくれたのかもしれんなあと。

おととし、転職活動をしていたころ、毎日面接がうまくいかなくてつらくて、
あとどうしても無職だと暇をもてあますもんで、
時間があると図書館にいって本を読んでいたんですね。
心の支えがほしくて。宗教関係の本を。
もともとは、キリスト教(の宗教画)が好きだから、画集をながめたり、
キリスト教の聖職者のかたが書いた本を読んでいたんですけど、
なんでだったか、だんだんと道元とか最澄とか栄西とか法然とか親鸞とか、
それらの人々の伝記やら評論やらを読み始めて、
(このへんの気持ちのうつりかわりの詳細はほんとうによくおぼえてません)
それで仏教に、なんだか親しむようになっていきました。

仏教は、神さまを信じる宗教じゃなく、自分自身の心を鍛える 一種の哲学であるようです。
わたしは神さまの存在を頭からは信じられず、神さまが助けてくれるといった考えかたを
心の底からは受け入れられないから、
そういう考えかたによって自分が救われることはないとおもいますが、
自分の心を自分で鍛えるなら まだなんとか「可能」なような気がしたんでしょうかね。

神さまの存在を信じていないものですから、
そんな自分が仮に 宗教の教えの力をかりて生きようとおもったとき、
神の存在を信じることが大前提の宗教を選ぶと、悩むことになるでしょう。
「いつまでたっても神さまの存在を信じることができない」ということで。
神さまの存在を信じられない、ほんとにいるんだったらなぜ助けてくれないのか
なぜ姿をみせて直接話しかけて わたしの心をらくにしてくれんのかと 思い続けるでしょうね。
そんなことでずっと悩むんじゃあ なんのためにその宗教の力をかりるのかわからないですわ。
自分じゃどうにもできないことですからね 
神さまがいるかどうかわからないからって、自分で作るわけにもいかないし。
でも、「いつまでたっても自分の心を強くできない!自分は弱い!」と悩み続けることならば
すべては自分の責任でなんとかできることなので、
がんばりつづけることができるような気がします。
その点、仏教は、
「そうか、どうしても自分の心を強くできないのか。しょうがないなあ。じゃあこうしなさい」
とかいっていい方法をおしえてくれたりするものじゃなくて、また、
「苦しいときはわたしのもとにきなさい。休ませてあげよう」
とかいって、やさしい神さまがおひざをかしてくれるわけでもありません。
「なにも考えなくても神さまが全部用意してくれている。神さまにゆだねていればよい」
といったものでもない。
基本的にあくまで自分でがんばれ、自分で考えて切り開け、というもののようなんです。
なんかそのつきはなしたかんじがいいわなあとおもったというか。
位の高いお坊さんも、チベット仏教の最高指導者のダライ・ラマ14世でさえも、
まだ自分はブッダ(覚醒者)になれなくて毎日修行してるっていってます。
こういういいかたは、読む人が読んだらあたまにくるでしょうけど、つまり、
いるかいないかわからない神さまにたいして身をなげだすようなことはできない。
それよりも自分で自分を鍛えて強くなるという考えかたのほうが
確実で実際的なような気がした。
ということでしょうかね。
転職に成功して、もういまは
「心の支えがほしくて本をよみあさる」という毎日ではなくなったんですけど、
なにをおもったのか(結局ここもよくおぼえていない(^_^;) )、
いまだに仏教の本いっぱい読んでます。
でも、仏教の考えかたの実践や 自分なりに 自分の心を強くする方法を考えていくうえで
手引きになってくれるような本というと、どんなのがいいのかがまだわかりません。
いまのところ図書館の「宗教」の棚にある仏教関係の本をはじから読むということしか
していません。それもできるだけむずかしくなさそうなやつをね。
このまえ、山梨の曹洞宗のお寺にいき、お坊さんと話しているときに、
いま仏教に興味あって本を読んでいますと言ったら、とても喜んでくれました。
でも、本といっても、的確に書いていなかったり、曲解がすぎるものも
あるので、ものによってはいくら読んでも意味がないんだよねと言われました。
あんまりゆっくり話す時間がなかったんですけど、
今度会ったときはそれまでに自分が読んだ本をメモしておいて
こんなのを読んできましたとお坊さんにみせて、どうだかチェックしてもらおうとおもいます。
そしてお坊さんがよいとおもう本をおしえてもらいます。

なんかこうしていろいろと書いてみて
自分の心がいかに荒廃し 未熟であるかがわかってきましたわ。


今年はまずぜったいに旧年のようなひどい体調不良におちいらぬように
用心しながら仕事に励みたいと考えています。
忙しいことに、できれば慣れたい。
合間をぬって うまくたくさんの本を読んだり映画を観たりしたいとおもいます。




Category: 雑記

スペイン国立バレエ団→ライブ→図書館

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スペイン国立バレエ団の公演をみにいった。
(渋谷 Bunkamuraオーチャードホール 13:00~)
知り合いのブルースシンガーの長谷川直樹氏が、
8月のあたまごろに、いろんなジャンルのミュージシャンやパフォーマーがあつまる
イベントをひらいたのだけど、
そのイベントに出演していたフラメンコダンサーのグループの、
フラメンコがとってもかっこよかった。
またみたかった。
でも当然のことながら、いつだってどこでだってみられるというもんじゃない。
フラメンコは本来、外国の踊りなので(-_-;)
それで、じゃあフラメンコじゃなくてもいいから、「スペインの」なにかをみたいとおもい、
インターネットでなんとなくさがしていたら スペイン国立バレエ団の公演がひらかれることを知った。
バレエなのか、フラメンコじゃないのか・・・でもスペインだからな、いいか、ちょっとみてみよう、とおもい
ためしにチケットをとるためのサイトに飛んだら、もっと予約に難渋するかとおもったが普通にすぐとれた。
おもいきって、最上の席であるS席のチケットを買った(^_^) 
さすがに気軽に友だちなどを誘える金額ではないので 1枚だけ予約した(^_^) 1人で行った(^_^)

わたしはこの公演で、
一流のダンサーというものは、足をさばくだけ、腕を振るだけで、
観る者を泣かすのだということを知った。
涙でオペラグラスがくもってくもって どうしようもなかった。
これほどのものをみられるとはおもっていなかった。
1日あたりで自分がうけとめきれる量をはるかにこえる 感動や衝撃を 
2時間ちょっとで一気にキャッチして、あふれた。
とてもうつくしかった・・・ 
できればあと1週間くらい毎日みていたかった。

それから、スペイン舞踊において「バレエ」とは、
「くるみ割り人形」「白鳥の湖」のあのバレエではなく、
「踊り」全体をさすのだということを知った。
スペイン語では、いわゆるバレエのことは「バレエ・クラシコ」といって区別するらしい。
だから、スペイン国立バレエ団とは、スペイン語では国立舞踊団ということなのであり、
つまりわたしが観たのは「スペイン人のバレリーナが踊るバレエ」ではなくて
「スペイン屈指のダンサーたちが踊るスペイン舞踊」だったのだ。
ということは、
知らなかったとはいえわたしが観たかったものを、しかもそのなかでも最高のものをみられたのだ。
それと、スペインの伝統舞踊とはフラメンコだけではないそうだ。
「フラメンコ」「フォルクローレ」「エスクエラ・ボレーラ」「クラシコ・エスパニョール」という
4つのジャンルがあって、みんなちがうらしい。しかも、
どこそこ地方のフラメンコ、なんとか街のフォルクローレというふうに
地方により地域によりそれぞれのジャンルのなかでも無数のカラーが存在するようだ。
ちなみに、この4つのダンスをぜんぶパーフェクトに踊れるダンサーのことをバイラリンというんだって。
そんなこと、なにも知らなかった。
奥が深い。すごいなあ。スペインに行ったらこれらをみんなみられるのかなあ。

その夜、地元から電車で3駅のところにあるダイニングバーで定期的にひらかれている
イベントを聴きに行った。
いろんなおもしろい人と話せたし、よい音楽も聴けてよかった。
とくにThe Cavemansというバンドはめちゃくちゃよかったな。
ボーカルの人の声に非常な凄みがあった。
奇妙な話なんだけど、声が多層的に聞こえたんだよね。
じっさいに出している声と、それより3~4オクターブくらい上の音が同時に鳴って聞こえるというか。
へんな話なんだけど そういうふうに聴こえる、変わった声だったんだよ。
たぶんあの人もとはソロだったんじゃないかな・・・
ソロの人ってあのくらい 声にキャラクターがないとやっていけないって聞くもんなあ。


ところで、このまえ職場のちかくの図書館で
利用者登録をすませ、貸し出しカードを作ってもらった。
新宿区にある10の図書館すべてで使える貸し出しカードだ。
自分がふだん行くことになるであろう、職場から歩いて10分のところにあるこの図書館の
蔵書は7万冊くらいみたいだが、
区内の図書館ぜんぶと連携していて、この分館にない本をほかの館からとりよせてもらったり
できることをかんがえると、実際的な蔵書は7万冊どころじゃないからね。
かんがえただけでもちょっと顔がニヤニヤしてしまうね。

この「分館にいって利用者カードを作る」という行為自体、
かなり綿密な仕事のスケジュール調整と、3~4回の延期を経てようやく実現したもので、
そんなちょうしでこれから 何度、この図書館に行ったり本をかりたりできるのか
じつのところわれながらわからない・・・
でも、読みたいとおもう本のジャンルがさいきん変わってきて
高価な専門書などももっと読みたいとおもっている。
収入をふやしたいといったって、短期間ではなかなかムリだし
本を買えないとすれば図書館をもっと活用するほかない。

本というものにたいしてはいろいろと自分にも変なこだわりがあるけど
(たとえばできれば新品を買って読みたいとか、電子書籍ではなく紙の本を読みたいとか)
でも、いちばんだいじなことは そうしたオプション事項がかなえられることではなく
知識教養を吸収したいということなのだ。
そのためにはこだわりを捨てなくてはならないだろう。







 

Category: 音楽

ひさしぶりにブログ更新する。「繋がれた明日」を読んだ。

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あー ブログ ぜんぜんやっていなかった
なんでもいいんだが・・
なにか書いて自分の頭のなかを表現しているような気になっていないと
すぐストレスがたまってしまうので、ただそれだけのことなので、
べつに 書くことができさえすれば 媒体は なんでもいいんだが・・・
と おもっていたんだけど、 意外となんでもよくはないようだな。
いまのところいちばんラクにおもえるのはFacebookだよ。
友だち限定公開に設定しており、自分のことを知っているやさしい人たちだけに読んでもらえて
だれにも見せない日記とはまたちがい 
人がみているという一定の緊張感をかんじつつ自分の心の恥部をさらけだすって
露出狂じゃないか。精神的露出狂じゃないか。そうか・・・そういうあれだったのかわたしは・・・
ブログ せっかくたちあげたので。 これからすこしばかりまた
ブログを書くというのをちゃんとやるということが自分の習慣になるように
がんばってみることにする。Facebookに連携させてあるので
ここに書けばFacebookに公開しているのとおなじことになるのだし。

仕事はじつにいそがしい。毎日。
でもきょうひとやまこえた。早く帰ってこられてうれしい。今週は日曜日もちゃんと休めそうだ。
23日はどうかわからない。あした渡される仕事の量と納期設定による。かなしい。
とてもつかれている。できれば休みたい。

この2日間は、通勤の電車のなかで、真保裕一さんの「繋がれた明日」(新潮文庫)という小説を読んでた。
主人公は26歳の青年。彼は19歳だか20歳だかくらいのときに、
恋愛がらみのトラブルであやまって人を刺し殺してしまった。
少年刑務所ですごして6年がたったころ、仮釈放・保護観察の日々をおくることになる。
とてもすてきな保護司のおじいさんにめぐりあい、母親もむかえいれてくれて、
妹は兄貴のせいでさんざんつらいおもいをしたのでいろいろ言いたいことはあるようだが
母親をかなしませたくないとがんばって兄をうけいれようとつとめてはいる。
さいわい仕事もみつかり・・・、と、ぎこちないながら社会復帰への道をあゆみはじめる主人公。
しかしそんな彼の身辺に、ある日「この男は殺人者です」などと中傷するビラがばらまかれ、
彼とその家族のしずかな生活が、6年前と同様に、くずれていく。
だれがなんのためにこんなビラをまいたのだろうか、主人公は更生できるんだろうか、
といった物語だった。

主人公の、自分のあやまちを悔いて反省するきもちと、
「でも おれだけが悪かったんじゃないのに・・・」
という自己弁護のきもちとの まーーーーーーーーーーーグチャグチャなかんじが
じつに、じつに、
読んでいてイライラした(^_^) 
この青年、すなおじゃなくてね、だれにも自分の本心を話すことができない。
そして、「おれはたしかにあやまちをおかした。でもおれもこの6年でいろいろなものをうしなった」
とおもっていて、6年前のなんやらかんやらを すべて精算したりたしかめたりしないことには
前にすすめないような状態になってしまっている。
自分の事件の裁判のときにウソの証言をしたあいつ・・・、とか、
当時結婚も意識するほど親密な関係にあった彼女の現在・・・、とか
そんなことをこまごま気にして、真相をしったところで自分が傷つくだけなのに 
知りたいきもちをとめられない。
結果、おおくの関係者にとっては わすれているか、むしろわすれたいようなことを
必死でむしかえして、「おしえてください6年前のことを」となってしまい、
やれ妹の職場におしかけたり 友だちから元彼女の連絡先をききだそうとしたり・・・。
ちょっと異常だ。人からみたら。まして過去のあやまちの内容が殺人だけに
そりゃ相手に怖がられる。通報されてしまったりする。そんなことが何度もくりかえされるのよ。

おまえちょっと落ち着け、と、何回思ったかわからないよ。
とにかく一事が万事といった調子で、
イライラした!ほんとに。

でも、読み終えてすこしたってみると、こういうものなのかもしれないなとおもった。

彼は6年前の事件にかんするあることが気になっていて、
それをたしかめるために電車に乗って、とある人物に会いにいこうとするんだけど、
その電車のなかで、こんなことを考えてた。

「たとえどんな理由があろうと、隆太(主人公の名)たちは人を死に追いやったことで、
この車内にいる者とは確実に違う人種になった。刑期を終えたからといって、
彼らの住む世間というサークルの中へ戻れたという実感はない。
たぶん、この世間から疎外されたような感覚は一生ついて回る。
心の底から誰かと笑い合ったあとで、ふいにまたこの感情がわき起こる。
多くの人と同じ列車に乗り合わせていながら、行き着く先はきっと違っている。
いや、罪を犯したわけではなくとも、隆太と似たような疎外感を抱く人は、
この車内にいるのかもしれない。仲間となじめず、自分を表現できず、
どこへ歩いていいか先が見えない。なのに、六年前の隆太は足元を見ずに
ただ易きへ流れた。だから、道を間違えて罪へ走った。
この疎外感のようなものを、もっと先に自覚しておくべきだったのだろうか。」

そのとおりだよ隆太くんよ。
うん、先に自覚しておくべきだったのだろうなあ。
自分だけがなんかみんなみたいにできない、というかんじだろ? 
自分ひとりだけなんかうすよごれてみっともないというかんじだろ?それから、孤独ってことだろ?
知っておいたほうがいいきもちだとたしかにおもう。べつに人を殺さなくても、日常生活のなかで
感じ取れるものだし。わかるもん。わたしだってそういうのを感じることが多々あるからね。
はっきりいってろくな気分じゃないが、しかし体を切り刻まれるようなわびしさと寂しさであるだけに
友だちややさしくしてくれる人のあたたかみが身に染みるわけよ(^_^)
だいじにしようとおもうわけよ(^_^)

この文章を読んだときは、主人公の悔恨に共感した。
もうとりもどすことができない、という彼の苦しみに心から同情した。
共感した。同情した。


終盤はいささかうまくできすぎという気もしなくはなかった。
でも ここまでのことにならないと 人の更生、心の救済というのはありえんのだということだとすれば
なおさら、人には「もう1回」のチャンスが必要だと わたしはおもった。

いや極限レベルにイライラしたけどとてもいい物語だったとおもう。
真保裕一さんの物語はちょっと芝居がかってるけどあったかくていいよね。おもしろいし。
「ホワイトアウト」とか最強だったもん。あと「最愛」もよかった。
じつは「真夜中の神話」というのも買ってあるので、あしたはこれを読んでみようと思う。


あしたの仕事があまり大変じゃないといいんだけどなあ。
23日も出社しなくちゃというきもちになりたくないからさ(^_^)

Category: 本の感想 | Tag: 小説 真保裕一
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